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2000年1月1日付け「神戸新聞」に
"さくらぐみ"のピッツァ職人(ピッツァ・ヨーラ)
船曳 紀三子が掲載されました。
タイトルは
幸せ探し それぞれのかたち
ナポリで見つけた天職
「このまま終わりたくない 何か変えたい」

| 義士祭を終えた赤穂のまちは、落ち着きを取り戻した。その店は例外だった。週末には人の列ができる。
城跡近くのイタリア料理店「さくらぐみ」。遠くは東北や関東から電車を乗り継ぎ、客がやってくる。 目当ては、本場ナポリ仕込みのピッツァ(ピザ)。一枚一分の早業で焼き上げる、ピッツァヨーラ(ピッツァ職人)、船曳さんの腕だ。 (省略) 壁に掲げられた「真のナポリピッツァ協会」の額。この看板が人を集める。 ----------------------------------- 「店長、私に行かせてほしい」 1997年1月。船曳さんは顔見知りだった店長(39)に真顔で頼み込んだ。 (省略) 赤穂で生まれ育った。4人兄弟の末っ子。高校卒業後は、社会保険労務士の父親を手伝うつもりだったが、卒業と同時に病気で亡くなった。 (省略) ----------------------------------- |
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| 「このまま年をとっていけば、何もできなくなる。このままでは終わりたくない。何か変えたい。」
(省略) ....物おじする自分に必要なのは、前へ一歩、踏み出してみる勇気だった。 「分からないけれど、ナポリへ行けば、何かが変わるかもしれない。自分を変える何かが、そこにあるかもしれない。」 ----------------------------------- ナポリの修業先は、夕食時の9時を過ぎると、順番待ちの大家族が店頭にひしめく。二百五十席ある人気店「オーカラマーロ」。オーナーは「真のピッツァ職人は日本にはいない。育つ環境がない。とにかくナポリに来い!」と、あの雑誌で豪語したナポリピッツァ職人協会長(55)。 (省略) ....仕事の大半は雑用で、たまに一枚を焼かせてもらう程度だったが、一枚を大切にした。休みは他店を食べ歩いた。 |
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帰国が近づいた夏のある日。ロックコンサートの会場で三日三晩、焼き続けた。最終日は8時間で二千枚を焼いた。興奮と安堵感で泣いた。本場の職人が音を上げた仕事量をこなした。162cmの東洋女性のガッツとセンスを、同僚たちが認めた。通常、一人前になるには一年でも難しいといわれる。
----------------------------------- いったん帰国し、舞い戻った一ヶ月後、イタリア国外ではニューヨークに一店しかないという協会の看板を手渡された。92番目の協会認定店として、日本で唯一、掲示を許された。 「発酵させた生地は手だけを使ってのばす。」「やわらかくよく焼け、香ばしく、縁がきちんと盛り上がらなくてはならない。」十ある協会の戒律を守れず、腕が落ちれば即刻、看板を返上しなければならない。権威はだてでない。 ----------------------------------- 「私も、やっと必要とされる人間になれたみたい。」ピッツァ職人を志す全国の若者が、本場の味を学びに船曳さんのもとへやってくる。 以上、神戸新聞 2000年1月1日号より抜粋 |
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